189-参-法務委員会-14号-2015年05月28日-初版
○田中茂君
ありがとうございます。
そこで、単刀直入にちょっとお聞きしたいんですが、私も裁判員裁判は続けた方がいいと思っておるんですが、今現在、裁判員裁判を、この趣旨を守りながら、何が一番、これを続けさせるためにどこが一番ネックになるのか、どういうふうに解決すればそれは良くなるのか、もっと国民に浸透させる、そして分かりやすくさせる、裁判員制度をより充実させる、それで一番のネックになるというのは何なのか、またそれをどうやって解決すればいいのか、そういう解決手段があるのか、その点を三人の参考人の方にお聞きしたいんですが、よろしくお願いいたします。
○参考人(小木曽綾君)
現在のところ、参加された裁判員のアンケートでは、よい経験をしたというふうにお答えになるのが九割方であると記憶しております。
ただ、一方で辞退率がだんだん上がってきているということが懸念されるという点でありますけれども、制度の趣旨、目的を実現するためには、やはり参加への呼びかけはもちろん工夫するんでしょうし、私、学校での教育というのが重要なような気がいたします。
今回の法案、もしかするとですけど、今回の法案は負担感の軽減にも資するかもしれません。これは強くは申しませんが。
一つ留意すべきは、陪審とか参審員を持っている国の歴史は、これ数百年の単位でありまして、制度の定着や評価には時間がある程度掛かるということではないかと思います。
国民への参加とか、国民が主体的にその問題を考える。じゃ、どういうことがあればそういう目的が達成されたのかというのは物差しでは測れませんから、制度を維持する際には、もちろん行政府も司法府も努力するんでしょうし、例えば立法府としても、制度の維持、普及に必要な予算を認めるというような方法で協力するということが必要になってくるのではないかと考えております。
○参考人(小沢樹里君)
私は、裁判員が、私も小さな息子がいますが、先生がおっしゃったように、小さな頃からの理解というのが、この先長く見たときに非常に大きな可能性につながるのではないかと子供を通して感じることがありました。
その中で、実を言うと、私はこの裁判員裁判が始まる前に模擬裁判というものに参加したことがあったんですが、そのときに感じたのは、非常に裁判官の誘導がかなり多いなということを感じました。
ですが、実際自分自身が体験をして、中に入ってみたわけではないですが、新聞等など客観的に裁判員の評価というものを最終的に聞いたときに、かなり裁判員自身も自覚を持って判断した場合には、そうではなくてしっかりと意見を言えているんじゃないかなというのを感じました。
だからこそ、私たちの新聞には、裁判官と私たちの差があったというような見出しがあったんですね。
それがあってよかったなというのを感じました。
二点目に、裁判員をやる上で、男女比であったり年齢比というものもしっかりと組み込んでいかないと、やはり差がどうしても出てしまうのではないかなと思います。
というのも、意見を言うとなったときに、やはり若いからこそ、被害者がどの年齢かというのが分かりません、そうなったときに、やはり年齢が様々いないと平等を保てないというような感じがします。
また、次に、あとは、写真を見るということに関しても、先ほど話しましたように、遺体であったりとか傷の写真であったりとか、そういうものを見るんだというような前置きをしっかりとこの先もしていくということが非常に大事になっていくのではないかな。
見ないかもしれないで来るのよりかは、見るということを前提に来ることで心構えと精神的な安心感も得られるのではないかなと思います。
また、四つ目が、裁判員は、私は人を見る目がしっかりあると思います。
確かに法律の上では素人です。
ですが、人として熟練した方もいらっしゃいますので、そういう面でいえば、先ほど両方にいらっしゃる先生方がおっしゃるように、サラリーマンであったり主婦目線がしっかりと判決の中にまで行き届いた文面になるように、私は、今後そういうようなところもしっかりと見ていく、だからこそ市民の意義があるんだということを感じるというのが必要だと思います。
それから、最後になりますが、地域性であったりとか、勝手な思い込みというものがまだまだ、裁判員をやる中でかなり柔軟に考えましょうということで、ストップウオッチであったりとか、いろんな意見があります。
被害者の中でも、十分しか意見陳述を言えないよという裁判体と、一時間できますよという裁判体がいろいろあるんですね。そこの流動性というものが何で変わっているのかというと、実を言うと検察官だと思うんですね。
検察官の勉強であったり被害者とのコミュニケーションというのがしっかりとすることで十分に解決するものもあるんじゃないかなと思いますので、検察官にしっかりと、被害者に対してのコミュニケーションという面ではそこを十分勉強していくことでかなりクリアになっていくんじゃないかなと私は感じております。
以上です。
○参考人(泉澤章君)
もうお二人の参考人の方々の意見で大分尽くされているというふうに思います。
私も、一番大切なのを一つだけといったら、やはり私は教育であろうかと思います。
ただ、裁判員裁判だけの教育をするというのはそれほど効果はないのかなと思います。
なぜなら、やっぱり先ほどから何度も出ておりますように、裁判員は負担を負うんですけれども、裁判において導かれる客体じゃなくて、自分たちが主体となって物を考えて発言をし評議をするという、本当に民主主義の、言ってみれば民主主義の学校じゃないですけれども、そういうところがあるわけなんですよね。
日本人って、ずっと戦後そういう教育を受けてきたと言いながら、私も含めて、やっぱりそういうのは不得意ではないですか。
それをやはり私たちの次の世代、新しい世代の方々が、そうじゃない、人間は多様性があり、かつ意見を言い、みんなで話し合った上で物事を決めていくんだということが、やっぱり学校教育においてきちんと、きちんとこれが教育されていけば、きっと裁判員裁判にあなたなりませんかと言われても、私はこの国をつくっている国民である、民主主義を自分たちが体現し現実化していくためには参加します、そしてそこで私の意見を述べます、そしてそこで決めていきますということができると思うんですよね。
なので、皆さんも同じことを言っていると思うんですけれども、教育、次の世代への教育、しかも裁判員裁判特有というよりはむしろ民主主義はいかなるものかという教育を本当に、形だけじゃなくて、本当の意味でやっていくことこそが一番この制度を続けていくことに大事だというふうに思っています。以上です。
○田中茂君
ありがとうございます。まさに私も教育だとは思っております。
もう一つ、小沢参考人がおっしゃったように、何らかの証拠の一つにしても、確かに一言何か丁寧に説明をしてあげれば、その証拠を、どういう証拠なのかと、そのたった一つの、裁判官なり誰かがそういう丁寧に説明しただけでも全然違ってくると、確かにそう思っております。
今日は本当に三人の参考人の方に貴重なお話を聞かさせていただきまして、ありがとうございました。