<ノブレス・オブリージュについて>
森友、加計問題が再燃しています。5月10日、加計問題に関して、柳瀬唯夫元総理秘書官(現経済産業審議官)が、衆参予算委員会に参考人として出席しました。それまで、獣医学部の建設予定地である愛媛県や今治市の担当者とは、自らの「記憶の限り」では会ったことがないと強調していたにもかかわらず、一転して三度会ったことを認めました。
どのように会い、どのような話をしたかについては愛媛県知事の説明と相変わらず異なっています。しかし、それより問題なのは一度もその経緯について安倍総理に報告したこともなければ、指示を受けたこともないと言い切ったことです。もしこれが事実なら、この国の指示系統はどうなっているのでしょうか?総理の指示や承諾、報告義務もなしに、秘書官が自らの裁量で勝手なことができることになります。
この参考人招致を受けて、5月14日に開かれた衆参両院の予算委員会集中審議に出席した安倍総理は、柳瀬元秘書官の話に合わせて、一度も報告を受けたことがないと答えました。もちろん元秘書官が参考人として出席することを決めた段階で、作られていた筋書き通りの答弁でしょうが、それにしてもそれを聞いて、この国は一体どうなっているのかと改めて思った方も多いと思いますし、政治不信に陥られた方も多いでしょう。
安倍総理は何かというと「違法性はありません」と強弁しますが、強い違和感があります。つまり、違法でなければ権力を持った人が何をしてもいいのかと言えば、決してそうではないはずです。しかし、現在の「もりかけ」問題は、その様な本来あってはならない状況を生み出しているから、国民は政治不信を抱き、またその結果、政治に対する無関心、虚無感が生まれつつあるように思えます。
このような権力者の考え方は、「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige:仏語)」、つまり「高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方」(大辞林第3版)とはかけ離れているのではないでしょうか。高い地位や身分とは、現在では広く権力者、有名人、知識人、富裕層などを指すでしょう。そういう人たちには相応の責任や義務があるという基本的な道徳観といえます。
しかし、戦後の日本の「民主主義教育」は、間違った個人主義や平等主義、さらに平和主義などを人々に植え付けた感があります。その最たるものは個人主義と利己主義の取り違えに見られますし、平等主義は機会の平等に限らず、能力の平等にまで及びました。また平和主義は一国平和主義という、世界の常識を無視したいびつな考え方を国内に蔓延させました。戦争のトラウマからか、自分の国を守ろうという気概、愛国心を育てようとはしませんでした。
私は2007年に上梓した本の中で、このノブレス・オブリージュを取り上げ、政治家や国家公務員にはノブレス・オブリージュの自覚と大いなる志が必要であると書きました。また同時に、かつて外務官僚の出身で日本の国際連合加盟に尽力され、その後、歴代総理の顧問としても活躍された加瀬俊一(1903~2004)氏の言葉を取り上げています。
加瀬氏は学生のときに外交官試験に合格し、外務省に入省して米国留学もしましたが、「自分が選ばれたエリートという意識を持ち、エリートだからといって慢心することもなく、大衆にこびず、迎合もせず、使命感を持って大衆を導く決意を持たなければいけない。エリートが選ばれた者としての気概を失ったら、その国は衰えるのではないか」と述べています。かつて、日本でも浸透していたノブレス・オブリージュという考え方も、戦後教育が裾野を広げていく過程で、徐々に失われていったのではないでしょうか。
日本のノブレス・オブリージュやエリート意識は、弱者や死者への負い目や共感の感情を持ったものだったという記事を読みましたが、なるほどと思います。中曽根康弘元総理は、時に戦死した戦友のことを語りましたが、豊かで平和な国づくりへの道は、まさに彼らに対し残された者が果たすべき約束、義務であったと思います。
今の日本の官僚や政治家にその意識を求めるのは、時代性からいって難しいのかもしれません。しかし、それを絶えず意識することは必要ですし、それを意識することを教えるのが教育ではないか、と思います
よく「教育は国家百年の大計」と言われます。教育の成果が現れるまでには、それだけ時間がかかるということです。ノブレス・オブリージュの精神を取り戻したり、新たに根付かせたりするには長い時間がかかることでしょう。しかし、それこそが教育の役目です。
持つ者と、持たない者の差が大きくなる時代を迎えようとしています。権力や社会的地位などを持つ人たちだけが、好き勝手なことを出来る時代であってはなりません。現実の政治状況を見るにつれ、ノブレス・オブリージュの精神が必要であることを痛感します。
<相馬雪香の言葉>
相馬雪香(そうまゆきか)(1912~2008)は、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれた尾崎行雄(1858~1954)の三女として生をうけました。晩年の相馬さんは、認定NP0法人「難民を助ける会」会長、財団法人「尾崎行雄記念財団」副会長、「日韓女性親善協会」名誉会長、「日本レソト友好協会」会長などを務められていました。
5月3日の憲法記念日に、財団法人「尾崎行雄記念財団」研究員の高橋大輔氏が、相馬さんが「民主主義とは何か」を常に考え続けてきたとし、彼女の残した言葉をいくつか紹介していました。その言葉には民主主義の本質が平易な言葉で示されており、現在の政治状況を見るにつれ、その実現が私たちひとり一人に委ねられていることを強く感じます。
~民主主義は種蒔き。種を蒔いて水をやる。でも、すぐには芽なんて出ないし、花を咲かせるわけじゃない。じっくり、何度も何度も水をやって、世話をして。それをやり続けないと、すぐ枯れちゃう。民主主義って、世話を怠るとあっという間にしぼんじゃうからね。だから、芽が出て、花が咲いて、大地に根が張り巡らされるまでずっと続けていかなきゃいけないのよ。
~このままでいいなんて、誰も思ってはいないはずです。でも、変えようとしない。民主主義ってのは、自分たちが変わろう、変えようと思った時に、それができる社会なんですから。それを大いに生かすべきです。日本人ってのは、変化をこのまないっていうが、恐れるようなところがあるわよね。でも変化のないところに進化はないですよ。
~民主主義ってのは、私たち一人ひとりが大切ってことでしょ?
一人ひとりが尊重されると同時に、その一人ひとりがこの社会に当事者として責任を持つ。そして自ら政治や社会に参加していくこと。他人任せ、お上任せにしちゃいけない、それが民主主義でしょ?!
~戦後の教育が間違ってたとか、行き過ぎた民主教育で自分勝手な子どもや若者が増えたって言われるけど、冗談じゃないよって言いたい。行き過ぎた民主教育?私に言わせれば、戦後教育の一番の過ちは、民主主義を掲げながらも本当の民主教育、市民教育が行われなかったってことですよ。
出典:「平和活動家 相馬雪香さんの50の言葉(石田尊昭著 世論時報社)」
民主主義を取り入れているすべての国が、基本的に多数決を決定手段としています。したがって民主主義イコール多数決のように考えられていますが、多数決で決めることだけが民主主義ではありません。その基本は少数の人々の意見も聞き、取り入れる制度だと言えます。
ところが最近の日本の政治では、小選挙区制が定着し、与党多数の上に官邸の力が強くなり、選挙での公認権、人事、資金をすべて握る体制になっています。いわゆる「安倍一強」といわれる体制です。その結果、自民党の中でも、自由にものを言えない状況になっているように感じられるのが気になります。そもそも自民党には、タカ派・ハト派と言われたように思想的にはかなりリベラルな人から右派まで幅広い人材がいて、政権派閥以外の派閥が今の野党かそれ以上の役割を担い、権力闘争の激戦場にもなっていました。
派閥政治に問題がなかったわけではありませんが、今は、人事や予算を握られている中で、ごく一部を除いて、異論を唱える人はいなくなり、その中で与党の数にものをいわせた政治が行われています。政策に限らず国会運営も意のままに進めているきらいがあります。しかし、それが続けば大きなしっぺ返しを食らうことになりかねません。
マハトマ・ガンジーは、「不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、真の民主主義精神の成長にとって障害となる」と述べていますが、力のある与党だからこそ不寛容を排するという大いなる自戒を求めたいと思います。