元参議院議員 田中しげる

しげるレポート | 田中しげるの活動報告ブログ

中曽根流危機管理
レポート 2018/10/04

 先月の9月6日未明に北海道で起きた最大震度7の地震では、震源地近くの火力発電所が機能しなくなり、そのために全道の電気が消えるというブラックアウトを引き起こしました。ブラックアウトの原因は、火力発電所一箇所に電力供給を集中させたことにありました。電力の一極集中がいかに危険であるかは、福島第一原子力発電所の事故の際に十分学んだはずでしたが、その教訓が生かされないまま大きな事故となりました。
経済産業省は、何年も前から北海道電力の電力供給が、今回原因となった火力発電所に頼りすぎていることを指摘していました。問題認識があっても現実に対応し、改善してこなかったことが今回のブラックアウトにつながっています。危機管理・リスク管理を怠ったための事故であり、人災と言えます。

第71代内閣総理大臣の中曽根康弘氏(以下、中曽根総理)は、危機管理・リスク管理において卓越した指導力を発揮したことで知られます。危機管理のノウハウは、「危機管理の継続である戦争体験によって自然にある程度備わった部分もあった」そうですが、「大臣や総理に就任してからは体系的に、また行政的に研究し、対応を考えた」と述べています。
 中曽根総理ほど大きな事件や事故を多く経験してきた政治家も少ないでしょう。佐藤内閣の運輸大臣(1967~1968)のときは、就任期間の1年間に南海電車の衝突事故、死者104人を数えた飛騨川のバス転落事故、宮崎県のえびの地震、北海道の十勝沖地震と相次ぎました。防衛庁長官時代(1970~1971)には有名な三島由紀夫の自殺事件が起きましたし、通産大臣時代には第一次石油危機が発生し、瞬時にトイレットペーパーや洗剤が小売店から消えるという事態が起き、国民生活に影響を与えました。これらの危機的状況に遭遇し、自らの危機管理能力の重要性を強く認識していったのです。

 鈴木善幸(1911~2004)総理時代には行政管理庁長官(1980~1982)として行政改革を進めたのは周知のとおりですが、鈴木総理が外遊の際には内閣総理大臣臨時代理を務めました。羽田で総理を見送ると、帰りの車の中から地震に関係する各省庁に連絡をし、地震対策の報告を求めました。
 総理不在のときに地震が発生したらどうするのか、どのように国と国民を守るのか。総理の代わりに指揮を取らなければいけないわけですから、知らなかったでは済まされません。自民党内には「もう総理になったつもりか」と揶揄する声もあったそうですが、中曽根総理にとっては、それはごく当たり前の準備でした。どんな危機がいつどこで起きるかわかりません。
一般に、リスクとそれが及ぼす影響を正確に把握し、事前に効果的な対策を講じることで、危機発生を回避したり、その影響を低減したり、あるいはリスクヘッジを行って、危機発生時の損失を最小限にとどめることがリスク管理です。その中でも特に、重大な影響を及ぼすことが予想される事態(危機)が発生した場合に、その影響や損失を最小限に抑えることが危機管理です。
想定される事態に備えることからリスク管理・危機管理が始まります。またそれは、それだけ国と国民に対する責任感が強かったことの証左でもあります。天変地異は避けられませんが、リスク管理・危機管理の原則に則って危機時の被害をどれだけ少なくするかということこそ、総理の仕事なのです。
 
総理に就任したときに、やはり危機管理能力に秀でていた後藤田正晴(1914~2005)氏を官房長官に任命したのも、リスク管理を強化し危機に備えるためであったことは言うまでもありません。総理時代に後藤田正晴官房長官とともに対処した、三原山の爆発による大島全島民と観光客1万3百人の避難、ソ連の戦闘機による大韓航空機の撃墜事件の処理などは、今日なお危機管理の手本として語り継がれています。
三原山の爆発時には避難する人を乗せる船舶が足りずに、国会の承認を得ることなく総理の独断で自衛隊の船舶を派遣しました。沖に自衛隊の船影が見えたときに、多くの島民がこれで助かったと思ったと語りましたが、国会では問題になりました。しかし、これこそ国民の生命と安全を守るための危機管理だったのではないでしょうか。

 1983年に米国で行われたウィリアムズバーグサミットは、中曽根総理が初めて参加した首脳国会議でした。
 このウィリアムズバーグサミットの最大のテーマは、ソ連の中距離核ミサイルSS-20の配備に対して、西側陣営がどう対処するかにありました。具体的な対抗策として、ソ連がミサイルを撤去しないなら、アメリカの精密なパーシングⅡ中距離核ミサイルをヨーロッパに配備することが議論になりました。それはソ連と対決するのか、妥協するのかの問題でもありました。ヨーロッパの一部からは妥協案として、ヨーロッパからウラル以東のアジアへの移転はやむをえないという意見が出始めていました。それで、中曽根氏は前もってレーガン大統領に親書を送り、妥協案に反対すると同時に、サミットでこの問題を取り上げるよう提案したのです。
サミットでは案の定意見が分かれました。ソ連と対決することに賛成したのはレーガン大統領、サッチャー英首相、そして中曽根総理。ミッテラン仏大統領はパーシングの配備には賛成でしたが、サミットはそもそも経済会議であるから声明を出すことには反対という立場を取り、ドイツのコール首相はフランスに同調、そしてカナダのトルドー首相が慎重意見を述べ反対。
意見が分かれたところで総理が、ソ連を交渉の場に引きずりだすためには、西側の固い結束が必要であり、それを示すことが大事なのだと主張。さらに総理の真情を吐露しました。その内容はまたの機会に書くとして、それによって反対していた首脳達は黙ってしまいました。それを見たレーガン大統領はすかさず、みなさん賛成とみなして声明を発表することにしますと述べました。反対する首脳はいませんでした。つまり中曽根氏の発言をきっかけに、ソ連が交渉に応じないなら、パーシングⅡミサイルを配備する声明書を出すことを決めたのです。
 その6年後のことです。英国で行われたソ連に関する国際会議の全体会議の席上、エドワード・ロウニー氏は次のように語りました。
「私はレーガン大統領の特使として日本へ派遣された。ゴルバチョフが提案しているSS-20を、アジア地域配備の100弾頭を除き全廃するという案を、日本に呑んでもらうためだった。ところが、中曽根総理は『それは駄目だ。アジアからも全部撤去し、グローバル・ゼロでなければならない』と強く主張した。
 私は折角米ソ間で妥協できた案なのに、日本のためにゴルバチョフの歩み寄りが流れてしまうと恐れた。ところがワシントンへ帰り、レーガン大統領に日本というよりは中曽根総理の姿勢を伝えたところ、大統領は「中曽根総理の意見は、即自分の意見である。彼の意見を重視し、その立場で再度、ソ連と交渉せよ」と私に命じた。私はその通りにした。そして、グローバル・ゼロが実現したのである」
 
「ロン・ヤス」関係がどの様なものだったか、その一端が知られると同時に、中曽根総理の先見性やリスク管理に対する強い信念が理解できると思います。
 中曽根総理時代の日米関係は、「ロン・ヤス」の友好関係がよく取り上げられますが、実際は厳しい貿易摩擦のさなかにありました。とりわけ車、農産物(米、牛肉、オレンジ)、半導体が目の仇にされました。さらには市場の閉鎖性などが槍玉に挙げられ、ジャパンバッシングが起きました。
首脳同士の親密な関係の裏では、まさに経済戦争が繰り広げられていたわけです。当時、中曽根総理はテレビに出演し、日米間の経済問題を国民に丁寧に説明し協力を求めました。総理がテレビを通して直接国民に訴えたのは初めてでしたので、今でも鮮烈な印象が残っています。
中曽根総理は総理就任後初訪米の際に、「ロン・ヤス」関係が構築されるや直ちに指示を出し、日米の外交官同士が日米の中間にあるハワイで毎月会い、2国間の様々な問題を忌憚なく話し合い、それぞれが問題点を国に持ち帰り、それぞれ官邸とホワイトハウスが直接検討しあうことにしました。首脳同士の友好関係とは別に、実務の部分では両国による丁寧で綿密なすり合わせが行われていたのです。このような地道な努力もあって、強固な「ロン・ヤス」関係は維持されていたのです。これもまたリスク管理の見本といえるでしょう。
 
危機管理・リスク管理がまず必要なのは自然災害時でしょう。中曽根総理が総理に就任して真っ先に行ったことの一つに、東海関東大地震に対する備えのために、地震計を各所に備えたことが挙げられます。リスク管理の極意は、未然に危機を防ぐことにあります。今日、地震予知は昔に比べ格段の進歩を見せていますが、ひとたび地震が起きると、今回の北海道胆振東部地震でも明らかになったように様々な問題が発生し、過去の経験が十分に生かされているとはいえない状況です。リスク管理に加え、予算面の配慮を含む政策も考えられるのではないでしょうか。
 自然災害もさることながら、たとえば政治の世界では毎日がリスクへの対応の連続といえるでしょう。しかし、残念ながらそれがうまく機能してきたとは思えません。特に通常国会では危機管理の破綻の連続でした。
 9月20日に行われた自民党総裁選は、大方の予想通り安倍晋三首相の勝利に終わりました。しかし、想定されていたよりも石破茂元幹事長の善戦が目立ちました。それだけ、投票をした議員や党員のなかに安倍首相一強に対する批判が強かったことを示していました。
 これから3年間にわたり安倍首相による政治が続くわけですが、内憂外患、厳しい3年間になることでしょう。中曽根総理が総理就任時に日本の重要な問題として取り上げたのは天皇制の維持、自然災害対策、外交と経済でした。
 外交では真っ先に韓国を訪問し、悪化していた関係を修復しました。そして訪米したのです。日米関係も悪化していました。この順序は異例でしたが、実は綿密な計算の上で行われた総理の危機管理だったのです。元々憲法改正を掲げて政治家になり、憲法改正運動を繰り広げてきましたが、総理就任後は国民生活の安定を先に挙げ、憲法改正を政治日程からはずしました。それもまた危機管理だったのだと思います。
 
9月27日朝のニュースでは、トランプ大統領と安倍首相が懸案の貿易摩擦に対して、新たな貿易協定に関する交渉の開始に合意したことを発表したとあります。両首脳がどのような話をしたかはまだわかりませんが、中間選挙を控えたトランプ大統領が、アメリカファーストを掲げ自国の利益を最優先に様々な要求を突きつけてくることは容易に想像出来ます。まさに「ドナルド・シンゾー」関係の正念場ともいえます。
 対米国、中国、韓国、ロシア、そして北朝鮮。外交は危機状態が続いています。天皇制についても、その維持に関する根本的な問題は何ひとつ解決されていません。自然災害は避けられませんが、被害を抑えることは可能であり、そのためのリスク管理力が問われます。問題は山積しています。
 危機管理・リスク管理には強い意思と周到な準備、柔軟な対応力が求められます。日本の繁栄につながる真の危機管理・リスク管理に取り組んでいただきたいと思います。

日本に生まれ育ち、一生を過ごしたいと言える「誇りのもてる国」
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