2019年4月1日(月)、5月から始まる新しい時代の元号が「令和」と決まりました。万葉集巻五、「梅花の歌三十二首」の序文「初春の令月にして気淑く風和ぎ」から命名されました。中国ではなく、日本の古典から採ったのは初めてのことでした。また、これまで天皇の即位前に、新しい元号が公表されたことはなく、初物尽くしとなりました。「令」は「よくする、立派にする」という意味があります。平和で穏やかな時代になることを祈りたいと思います。
元号が決まり、次は今年4月30日(火)の今上天皇の退位と、翌日5月1日(水)の皇太子の即位という、歴史的な日を迎えることになります。
2016年に今上天皇がテレビを通じて「お言葉」発表されました。天皇が国民に向かって話されたことの核心は、高齢になり天皇の務めができなくなる前に、天皇の地位を皇太子に譲りたい、ということでした。
ところが、これをマスコミは「生前退位」という言葉を造って報道しました。天皇が自らの意志で、天皇の地位を皇太子に譲るわけですからその行為は「譲位」であり、本来なら「譲位」を使うのが妥当なわけです。事実、最も近い例では、およそ200年前の1817年に光格天皇が仁孝天皇に譲位を行っています。
「譲位」は天皇家の歴史から見れば珍しくないことなのですが、明治憲法では「譲位」を認めませんでした。これについては憲法制定を進めた日本の初代首相、伊藤博文と草案を起草した井上毅との間で有名な論争がありました。井上はこれまでの天皇家の歴史を踏まえ、人間としては当然の行為に当たる譲位を認め、草案の中にその項目を入れていました。しかしこれを見た伊藤は、削除を命じ論争となったわけです。
世界に追いつくために中央集権国家体制を作ることを目的とした伊藤は、譲位はマイナスになると考えたのです。長い天皇の歴史の中では、恣意的に「譲位」が行われたことが何回もありました。時には自らが上皇(太上天皇)として権勢を振るうために、また時の政権に対して異を唱える意志表示として行われたこともありました。伊藤は天皇を利用しようとする勢力が生まれることを懸念したのです。それでは中央集権国家体制が維持出来ないと考えたわけです。そして、「譲位」の項目は削除されました。
実際旧皇室典範においても、また現皇室典範においても、天皇の退位に関する項目はありません。崩御をもって天皇が代わると考えられてきたのです。法律で示されているのは、
●旧皇室典範 第十條
天皇崩スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク
●現皇室典範第4条
天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する。
ということです。こうして、明治以降は天皇の崩御をもって御世が変わることになり、明治、大正、昭和の3天皇は、崩御をもって代が変わったのです。
高齢化社会においては、崩御するまで天皇の地位に留まることに対する疑問もあります。長命を保てば、病気や認知症などに陥る確率も高くなります。天皇として職務をまっとうできるかと言えば難しいことでしょう。今回の「譲位」の意向を示された今上天皇のお言葉も、まさに高齢になり天皇の仕事ができなくなる恐れが理由となっていました。皇室典範では、その場合は摂政を置くことが規定されています。しかし、天皇はお言葉のなかでもそれを否定し、それなら元気なうちに位を譲りたいというお気持ちを述べたのです。これまでになかったことですから、天皇のお言葉に対しては政府も困惑したでしょう。先述したように譲位は皇室典範に定められていません。譲位という言葉もありません。戦前の教訓から日本国憲法では天皇は日本国の象徴となり、政治に関係する発言は認められていません。ところが「譲位」となれば、天皇の意志で政治が動くことになります。そういう意味では天皇の発言は憲法に抵触しかねないという解釈もできます。
当然天皇は承知の上で発言をされました。天皇(権威)と政府(権力)との対立といえるでしょう。それだけ天皇と政府との意志の疎通がなかったことを意味します。前代未聞のことでした。識者の意見も分かれました。しかし、90%を超す国民が天皇の発言に理解を示したことで、何もしない政府も動かざるを得なくなりましたし、政府もまた動きやすくなりました。天皇の意志に沿うように、「一代に限り天皇の退位等に関する皇室典範特例法」を成立させたのです(成立:平成29年6月9日)。
しかし、政府はあくまでも「退位」とし、「譲位」という言葉を用いることはありませんでした。それはまた当然のことで、天皇の意志で新たな法律ができたということでは憲法違反にあたります。天皇の意志ではあるものの、政府が独自に定めたという体裁をとる必要がありましたし、その観点からも「譲位」を認めることは出来なかったのです。
現代人にとって、その存在を身近に感じられた、また感じられる天皇は昭和天皇であり、今上天皇だと思います。そもそも今日につながる天皇制は、長い天皇の歴史の中でも明治時代に誕生したものです。しかし、敗戦と同時に新たな天皇の時代が始まりました。それまで「現人神」だった昭和天皇は日本国憲法の下、国の象徴となり「人間宣言」を行ったのです。
昭和天皇は1901年4月29日に誕生し、1989年1月7日に崩御されました。87年の生涯でしたが人間宣言を行った1946年1月で分けると、不思議なことに「現人神(子供時代を含め)」として44年、「人間天皇」として43年、ほぼ同じ期間を生きたことになります。軍国主義、全体主義から主権在民、民主主義、平和主義と180度異なる時代をまさに半分ずつ過ごしたのです。
『昭和』を引き継いだ平成時代は「災害」の時代でもありました。30年の間にこれまで経験したことがない大きな火山の爆発や地震、集中豪雨など自然災害が何度も起き、被災者を慰問される天皇、皇后は平成の象徴ともなりました。なかでも膝をついて被災者の目線で話をされるお姿には、感動する人がいる反面、天皇がすることではないと反対する人も多く、天皇のあり方の難しさを世に知らしめました。
被災者を慰める旅の原点は、昭和天皇の全国巡幸にあると考えられます。昭和天皇は終戦を迎えた翌年、1946年(昭和21年)から1954年(昭和29年)にかけて全国を巡幸し、敗戦のショックから失意と虚脱にあえぐ国民を慰め、励まされたのです。全行程は3万3000キロ、東京、ロサンゼルス間を2往復する距離となりました。ただ、沖縄だけは現地の反対も強く、行くことができませんでした。しかし、その思いは今上天皇に引き継がれ、天皇の沖縄への訪問回数は11回にも及びました。
中曽根元総理は総理として5年間、昭和天皇にお仕え、強い敬愛の念を抱いていました。「総理として昭和天皇に仕えた者でなければわからない」と言い切る昭和天皇のお人柄については、残念なことに今日、そのことを語れる総理経験者は元総理を除いてもう誰一人として存在していません。
昭和天皇の崩御に際しては次のように語っています。
~昭和天皇は人間としても天皇としても大変立派なお方であり、このような不世出の天皇ともいうべきお方が崩御されたことを大変悲しんでおります。
振り返ってみますと、この63年の昭和の治世というものは、天皇におかれては殆ど苦痛の時代であり、わずか終わりの10年か15年くらいが安らぎの時代であられたように思えます。昭和天皇は非常に潔癖で責任感の強い御方でしたから、特に終戦直後は、戦争に負けて国民がこれだけ痛めつけられ、歴史的にも屈辱を味わったということについて、非常に苦悩されておられました。ですから内心ご退位ということも考えられていたことがおありであったろうと、拝察します。
しかしそれに耐え、苦悩で歪んだ顔を隠されながら全国を回り、笑顔で国民を激励されました。それで敗戦の日本は固まったと言えます。あの精神的な苦難に耐えられて、全国をお回りになるということは、崇高な責任感がなければできません。隠居されたほうが、好きな勉強もできるし、どれだけ楽か知れません。そのような点で、天皇のご巡幸は国民に大きな感動を与えました。
また元総理は「昭和天皇に大変なご恩顧を受けたと思っています」と次のように語っています。
~サミットが終わった時や、外国の大統領などと会談をしたあと、陛下のもとにご報告に伺いますと、陛下は耳を傾けてお聞きになって、報告が終わりますと二、三回でしたか、「よくやってくれてどうもありがとう。身体を大事にして、しっかりやりなさい」そういわれました。
恐らくそのようなお言葉は、総理大臣でもあまり聞いたことがないと思います。普通は「ご苦労であった」とだけいわれます。私はこのお言葉を戴いただけで、あらゆる疲れも治り、勇気百倍して、この陛下のためなら一身を顧みずお尽くししなければならない、日本を守らなければ、そのような決心を何回か固めて退出いたしました。
いろいろな意味でご尊敬申し上げていましたので、昭和天皇が崩御されたということは、父親に死なれたような、そんな気がします。
~陛下は天皇在位が63年にも及ばれたわけですから、戦前のことも戦後のこともすべて知っておられ、また科学者でもあられます。ですから、とくに植物の問題とか、動物の問題とか、生態系、環境、このような問題については非常にお詳しいのです。
従って、ご質問されると大臣がしばしば答えられないのです。仕方がないので「後で調べてまたご報告いたします」とお答えするのですが、とくに農林大臣と、環境庁長官にそのような場合が多かったようです。私も立ち会って聞いていて、ハラハラしどうしでした。わたし自身も一、二回返答に窮したことがありました。しかし、「よく調べて改めてご報告いたします」そうお答えすると、その後は質問をされません。そのあたりはさすがに天皇でした。
4月30日と5月1日、日本は新たな時代を迎えることになります。私たちは天皇の「退位」と「即位」を目の当たりにするまさに歴史の証人となるのです。