今日、中曽根康弘元総理の評価が高いことは、前回ご紹介した通りです。総理時代は「戦後政治の総決算」を掲げ、経済を重視することで国を守る気概を失わせてしまった吉田茂政治からの脱却を目指し、世界の中の日本という新た
な目標を掲げました。
内政においては行政改革を断行する一方、増税なき財政再建に取り組みました。赤字編成が続く国の予算に対しマイナスシーリングを設け、毎年、前年度よりマイナスの予算を組むことを総理在任中の5年間続けたのです。財政改革なしで戦後日本の総決算はできないという考えと、高齢化社会を迎える前に財政基盤を立て直しておかなければ、日本社会は大変なことになるという強い危機意識からのことでした。この効果は総理を辞めて2年後に現れ、平成2年度予算は赤字公債の新規発行をゼロにできたのです。しかし、景気の低迷とともに赤字公債の発行が繰り返され、それが現在も続き、赤字が約1100兆円に膨れ上がっていることは周知の通りです。
外交では、レーガン米大統領との極めて親密な関係を軸に、サミット諸国の首脳と良好な関係を維持すると同時に、中国の胡耀邦総書記、また韓国の全斗煥大統領とも友好関係を続けました。その上で、自由主義国家の団結を図り、共産主義国家体制崩壊への道を切り拓きました。
総理時代の実績を取り上げればきりがありませんが、意外と語られていないのが文人総理としての側面です。旧制高等学校という自由な雰囲気の中で青春時代を送ったこともあり、西欧の哲学や文学をはじめ、日本の仏教や芸術など広範な知識をお持ちです。学生時代はパスカルの『パンセ』を自ら訳し、カントの哲学理念を人生の規範としてこられました。また、若い時から俳句を吟み、戦後は茶道の手ほどきを受け、総理時代は時間があれば座禅を組み、精神の統一を図りました。サミット会議の際は、文人政治家として知られるミッテラン仏大統領と、よく哲学や文学談義をしたと語っています。
そのミッテラン大統領に招かれ、元総理がソルボンヌ大学で日本国総理として講演を行ったのは、1985年7月のことでした。私が丁度「近代政治研究所」(中曽根康弘後援団体)に入った頃でしたが、講演の原稿を読みその内容の素晴らしさに、このような政治家が日本にもいるのだと感動したことを覚えています。講演で元総理は、日本とフランスの文化の違いを指摘し、「静と動」、一見すると相反するように見える二つの文化が、より深いところで結びついたとき、21世紀が我々に突きつけてくる挑戦に対する、新たな大きな力になると述べています。元総理の、科学の発達と精神文化に対する深い洞察力を読み取ることができる貴重な資料であり、その一部をここにご紹介致します。
元総理の文化・文明論
~日本とヨーロッパ~より高次の普遍的文明の創出へ向けて~
本日、私は、700年の歴史を有するこのソルボンヌ大学において、日本の総理として初めてパリ・アカデミー学長名誉牌を授与されました。この上ない名誉であり、感激であります。ご高配を賜りました関係者の皆さまに、厚く感謝いたします。この光栄ある機会に、私は、日仏関係、さらにはより広く日欧関係の将来について、私の期待と所信を申し述べ、さまざまな領域で深まりつつある日欧間の対話の増進にささやかな貢献を加えたいと思います。
「日仏両文明の収斂と止揚を通ずるより高次の普遍的文明の創出」
日仏の我々の関係には、単に政治や経済の分野を超えて、精神分野において理解し合える深いものを持ち、共通するものを持つという強い確信が存在するのであります。
フランス国民の鋭い感性と繊細な美意識や直観的ひらめきに触発される熱情は、その日常生活から芸術、文学、思想活動にまで徹底して発揮されております。なかんずくフランスが世界に誇る長所は、カルテジアンと称せられる論理的整合性のあくことのない追求でありましょう。この意味で、「初めに言葉ありき」という言葉がもっともよく当てはまる国民は貴国民であります。言葉によって対象を徹底的に規定しつくさずにはおかない貴国民の性向から、フランス語を極めて大切にする、よく知られた貴国文化の特長が浮かび出ます。こうして築き上げられたフランス語とその表現力こそ貴国文化のアイデンティティの源というべきでありましょう。フランス人は、国語を大事にすることの深い意味をつかみとっている人たちであります。
一方、日本文化の伝統も、感性と美の追求を中心とするものでありました。日本はまた古くから「言霊の幸(さき)わう国」と言い伝えられ、約千年以前から小説や日記等の豊富な文学の遺産を持っております。しかし、日本語は対象の言葉による徹底的な描写よりも数語をもって情感を呼び起こし、自然や宇宙を象徴する使い方をされたとき、もっともよくその真価を発揮するように思います。それゆえに、わが国では、短歌や俳句という独特の短詩が生まれ、今でも何百万もの日本人が、日常的につくって楽しんでいます。私もその一人であります。要するに、我が国民には禅語に言う「不立文字と(ふりゅうもんじ)」によってものごとの本質を直感的に把握しようとする伝統的な特質があるのです。同様に貴国のパントマイム劇とわが国の能を例にとっても、同じく人間の情念をみごとに表現しつつ、パントマイムが「動」により、より描写的であるのに対し、能は「静」によって、より象徴的であります。私は、一見相反するように見えるこの二つの精神文化の特質がより深いところで結びついたとき、二十一世紀が我々に向け行いつつある挑戦に対して、より有効に、より大きな自信をもって立ち向かうことができると信じます。
この数世紀、科学技術の発展に支えられたヨーロッパの文明は、きわめて強い活力を保持して自己変革を遂げると同時に、その活力は外にも向けられ、世界のすべての地域に圧倒的にその影響を及ぼしてきました。それは何もヨーロッパの人々がそう考えただけでなく、その影響の受け手の側において、それを容認する社会思潮があったからであります。
しかし、今世紀も深まるにつれ、世界の人々は人類がその何千年の歴史において世界の各地域で積み上げ、つくり上げてきた思索と倫理と社会体制は、それぞれが人間の叡智と尊厳性の彫琢(ちょうたく)されたものであり、独自の価値を持つことを知るようになりました。アンドレ・マルローが様々な文明体系の生み出したそれぞれの固有の美に、等しい価値を付与して、美の領域をグローバルに拡大したのもその一つの例でありましょう。このような変化をもたらした理由にはさまざままのものが考えられます。私はやや逆説的ではありますが、ヨーロッパにおける科学技術の発達とその世界への普及自体が、その大きな理由であると考えます。世界各地にばらまかれた科学技術の種子は、いまや大きく育ち、絡み合い、科学技術のオリジンや国籍を問うことは無意味になってきております。科学技術は、その普遍的な論理性と実証性ゆえに、世界の共通語となり、科学者や技術者は、なんらの偏見もなく、各分野においてほぼ完全な交流を日常的なものにしております。科学技術の等質的な共有化は、異種文明間の理解に当たって、じつは不必要な偏見をなくし、奥に隠れた精神文化の実相を、より純粋に照らし出し理解できるようにしていると考えるのであります。
さらに重要なことは、科学技術の発達は、今後とも人類の生活と福祉の向上の基礎であるとはいえ、それのみでは必ずしも人間の幸福を保障し得ないということがはっきりしてきたことであります。核エネルギーの解放という輝かしい科学の成果が、核戦争の脅威という形で、人類の存在にかかわる今世紀最大の問題を生み出していることは、いまさら言うまでもありません。近年急速に発達しつつあるバイオテクノロジーによる遺伝子操作が、その展開次第によっては人間の尊厳を犯す危険性についても強い警戒が必要であります。人類は今このような外なるアトム、内なるジーンという二つの核の脅威にさらされております。ベルグソンは、「人類は人類自身がもたらした進歩の重みの下に、半ば潰された姿でうごめいている。しかも、人類は、自分の未来が自分自身の手で定めうるものだということを十分に知っていない」と述べましたが、私はこの哲人の言葉を想起せざるをえないのであります。
こうしたことは我々が今後考えるべき二つのことを暗示しています。第一は、科学技術が人類文化を覆いつくすのではなくて、科学技術を人類文化の一部分として適正に位置づける必要性があります。第二は、科学技術以外の人間の精神文明について、科学技術がその同価値性を認め合ったように、相互間の真の理解を深め、共通の価値評価の基盤を広げることであります。
もちろん、科学技術の発達自体が、我々の世界観や人生観、死の観念、感性全般に強い影響を与えることは事実であります。最近の素粒子物理学や宇宙科学の目覚しい発達は、世界の生成や「実在するもの」の意味について、我々の観念に新しい視野を広げさせようとしております。また、バイオテクノロジーの台頭は、遺伝子の解明を中心に、生物の「種」や「個」の存在を規定する必然性と偶然性を余すところなく明らかにしようとしております。こうした科学の発達が、21世紀の人間の考え方や生き方にどのように大きな影響を及ぼすのか、想像だにできないほどであります。
しかし、私は、科学技術がいかに発達しようと、人間の精神活動が神経細胞の化学的,電気的興奮のプロセスであることがいかに解明されようと、一つだけ変わらない重要な事実があると考えます。それは、そうしたすべてのことを観察し認識しているのは、ほかならぬ人間であり、人間だけであるということであります。いまこそ人間精神をそのあるべき高みに置き直すときであります。人間精神が我々を生んだこの広大無辺の宇宙と、孤独に、しかし厳然と向かい合い立っているその実相を認識するとき、我々は人間の尊厳性と、人類愛の自覚が、ふつふつと湧き出るのを覚えるのであります。
釈迦はすでに二千年前、「天上天下唯我独尊」と言い、また同時に、「山川草木悉皆成仏」と喝破しました。これが東洋的哲学の真髄であります。
私は、人間の精神活動に対して至高の価値を置くこと、換言すれば、ユマニズムの伝統こそがフランス文化の中核であると考え、それに大きな親近感と敬意を持つものであります。ミッテラン大統領が、その政権授受の式典において、「今日の世界において社会主義と自由の新しい結合を実現し、これを明日の世界に提供するということ―フランスにとってこれ以上に高い要請、これ以上に美しい野心がありえようか」と語られたのも、人間の自由な精神活動に至高の価値を置くフランス文化の伝統に立つものと信じます。私がウイリアムズバーグの首脳会談において、バイオテクノロジーの発展と人間の尊厳問題について世界の賢人会議の開催を提案したとき、真っ先に賛同していただいたのがミッテラン大統領であったことも、このことを物語るものであり、この会議は昨年東京で第一回が開かれた後、本年はフランスで第二回が開催されました。
日本は、その二千年の文化の伝統の上に、西洋文明吸収のためのこの一世紀の熱狂の時代をいまようやく終わろうとしております。この間に達成された現代日本の経済的発展、科学技術の躍進は、単に国民の勤勉や地政学的位置の賜物ばかりでなく、何よりも独自の伝統に近代西洋の所産を融合させた個性ある精神的秩序の所産なのであります。それが、今後21世紀に向かってどのように熟成し、自己発展していくか、それは歴史のみが知ることでありましょうが、ひとつはっきりしていることは、それが普遍的な、開かれた価値体系に向けてのいっそうの前進となるであろうということであります。
一方、ヨーロッパは、近代科学技術の創出と全世界への伝播という人類史的役割を果してきましたが、いまや、その人間の精神活動の営為の面での長い輝かしい伝統の発展のために、新しいエネルギーと新しい触媒を見出すことを望まれる時期に到達しているように思えます。そしてそのエネルギーと触媒は、世界の他の地域の文明の真実に触れ、それを正当に評価することの中に見出されるのではないでしょうか。
数年前、ミッテラン大統領が訪日されたとき、慌しい日程をさいて、わざわざ京都の古い禅寺を訪ねられました。ウイリアムズバーグの首脳会談で私どもが初めて会ったとき、大統領は私にそのときのことを、「日本は、単なる経済の国だけではない。その奥に何かがあると感じた」と私に話されました。ミッテラン大統領が、なぜ、禅寺を訪ねられたのか。私には、それが現代ヨーロッパ精神が志向するものを象徴するように思えるのであります。
世界各地域の人々が、その固有の伝統の上に、他の地域の人々の真摯な思索や倫理体系、独自の美意識についての理解を深め、相互に融合したとき、人類史上、初めて真の世界文化が花開き、人間は歓喜の翼の下に皆兄弟となるのでありましょう。
20世紀も終わりに近づき、この百年間にさまざまなことを体験した日本人はいま、ふたたび世界へ旅に出ました。私は現代において哲学か死んだとは思いません。また神仏を葬ってはならないと思っています。それは人間が自らを軽蔑することになると信ずるからであります。
(注:ソルボンヌ大学における講演は3テーマに分かれており、そのうちの1テーマをご紹介致しました。)