衆議院の憲法調査会が11月7日、約2年ぶりに開催されました。ただ、9月に行われた議員による海外視察の報告と質疑にテーマを限定し、懸案の国民投票法改正の議論は一切行われませんでした。
新内閣の閣僚2人が、贈り物や香典、また妻の選挙における金銭にまつわるスキャンダルで早々と辞任し、現在まで説明責任も果さないままです。また、文部大臣の教育格差を容認するような「身の丈」発言。それが問題になるや突然文部省は、大学入学共通テストに導入予定の英語の民間試験実施を延期してしまいました。これに対する批判が強いなかで、今度は安倍首相主催の「桜を見る会」の招待者の問題が大きく取り上げられました。首相の推薦枠が約千人、自民党関係が約6千人の計約7千人に上り、さらに民間人である首相の昭恵夫人から推薦があったことも判明し、野党は「桜を見る会の私物化の実態が、一層明確になった」と、状況は益々混沌としてきました。
結局、11月21日に開催予定だった衆院憲法審査会も見送られ、野党は国民投票法よりも先にやることがあると、畳み掛けるように政府攻撃を続けています。
この臨時国会は一体何のために開催されたのでしょうか。もちろん法務、外務、財政金融など各委員会では、さまざまな問題について議論がなされているのでしょうが、印象としてはスキャンダルで始まり、スキャンダルで終わるという最悪の様相を呈してきました。
そもそも国民投票法改正は、投票の利便性を現行の公職選挙法の内容に合わせるために行うものです。単なる選挙のやり方の問題ですが、議員数が圧倒的に少ない野党は、国民投票法改正を決めてしまうと、本丸の憲法改正論議につながるとして、憲法調査会の審議に2年間も応じてこなかったわけです。
かつて参議院議員時代に、参議院憲法調査会の委員を務めていた私にとって、憲法改正は、政治家を志した動機のひとつでした。憲法はその時代、時代にふさわしいものを国民が作っていくものだと思います。一度作ったら変えてはいけないというものではありません。
世界情勢を見ると、このようなスキャンダルで国会論議を滞らせる状況ではないはずです。もっと与野党がこの国の憲法をどうするか、真剣に議論することで国民の関心を高め、憲法論議を活発に行うときでもあるのに実に情けなくなります。
ここにご紹介するのは、2015年3月4日に行われた参議院憲法調査会における私の発言です。委員として初めての発言であり、私なりの憲法論を述べさせていただいたものです。
[会議録] 田中茂 参議院憲法審査会
2015年3月4日
「時代の変化と憲法のあり方」
日本国憲法成立からもう70年くらい経過しましたが、戦後日本の発展に対して現憲法が果たした役割は、私自身高く評価しております。しかし一方で、先ほど来いろいろとお話はされておりますが、時代の変化とともに国民が疑問や曖昧に思う箇所が多数明らかになったことも事実であります。
現憲法の基本理念である主権在民、基本的人権、平和主義、国際協調など、確かに尊重すべき点は踏襲して、現在の国情、世界情勢の変化に合わせて疑問点を明確化し、課題を整理したうえで国民の意思を憲法に反映させるときがようやく来たと、そう思っております。
21世紀も15年目に入った現在、日本を取り巻く環境は激変しております。そういうなかで、日本は長らく憲法とは変えるものではないと、そういう意識が強かったように思います。
がしかし、憲法の条文を変えることは珍しいことではありません。先週ですか、ドイツ、イタリアに視察に行った際の報告がありましたが、ドイツ60回、イタリアも16回憲法を改正しております。国民の意識もそのように変わりつつあると私は考えております。
特に、冷戦構造が崩壊し、各国、地域、自己のアイデンティティーが主張される時代となっております。宗教間、民族間の紛争やテロが世界各地で起きているのも、それが理由の一つではないかと思っています。
各個人の己のアイデンティティーを問われるなら、自らが属する国家のアイデンティティーを知る必要があり、これまでの日本ではそれが希薄であったと私は思っております。
「現憲法の出生は切り花」
以前、中曽根康弘元首相が、「現憲法の出生は言わば切り花だから、非常に鮮やかできれいなように見えるが、結局、自分の根で水を吸い上げて幹を通して葉を養い、自分の花を作っていない。むしろ内閣法制局や裁判所の解釈とか、便宜主義で造花みたいに長らえてきた要素が多い、まさにバーチャル憲法だ」とおっしゃっています。その表現を借りるとすれば、現憲法は既に造花にもならず、みずみずしさを失っているのではないかと私は思っております。
憲法とはそもそも命が限られた切り花のようなものではなく、日本人が日本の土地に種をまき、根を広げて葉を増やし、花を咲かせていけるような大きな木のようなものでなくてはならないと私は思っています。
私が思う次の世代にふさわしい憲法改正とは、日本人が初めて自らの手でつくる、アイデンティティーを自覚できるものであります。
憲法は当然ながら国家権力を、先ほどからおっしゃっていますように、当然ながら国家権力を制限する機関と同時に、国民の自由を認めるが、その国民の自由も、あくまで義務を伴う自由であると思います。
しかし、本質的に国家を支えているというものは、先ほど百地先生(百地章:日本大学教授、現日本大学名誉教授)がおっしゃったように、突き詰めれば私たち個々人の国家観や国家意識の醸成であって、それは個人の生命や時間軸を超えて継続する、国家という集合体に対する歴史性の自覚に裏付けられたものだと私は思っております。
国家とは常に特定の歴史性と文化性を背負った共同体なのであって、まさにそれから国民としての自由の気概が生まれてくると思っております。戦後日本は、荒廃した焼け野原から不死鳥のごとく立ち直り、驚異的な復興を成し遂げました。しかし、それと引き換えに国家意識は国民から薄れ、敗戦のトラウマから国民は国家の名誉も国民としての誇りも感じなくなりました。
日本国民に忘れかけられている自由の気概、国民としての誇りを覚醒させることが、我々子孫に対する私たちの、今の私たちの責務であると思っています。
「憲法と日米安全保障条約による平和維持」
日本が長年にわたり平和を維持して偉大な経済発展を遂げたことには、憲法のみならず日米安全保障条約が貢献しており、安保条約による米国の、米軍の保護の下に九条が存在しています。
平和を維持したのは九条の力だとよく言われておりますが、むしろ敗戦による厭戦思想と、それに続く高度経済成長により、なにも軍事などに頼らなくても平和が維持できるという国民意識が形成されたからであり、さらにこの平和維持は憲法と日米安保条約が一対になって得られたものだと思っております。
しかしながら、かつてのような経済成長が見込めず、グローバル化が進み、一国のみでは対処できない問題に各国、地域の協力で解決を図らなければならない時代になっています。このような時代には、外交上の所産である日米安保条約よりも、確かな日本の自主性、自体性、自由の気骨を備えた憲法の精神が必要であって、時代の要請に即した憲法の改正を考え、その力となること。私自身そう思っております。