先日、「中曽根元首相のもと行われた『9月入学』のシミュレーション なぜ?30年以上実現しなかった背景」の記事がありました。
実は中曽根康弘先生の政権下で果せなかった大きなテーマが「教育改革」でした。総理に就任する前年、中曽根先生は次のように語っています。「私は第2臨調の次に必要なのは『教育改革』だと考えている。文部省の中教審程度のスケールの小さい技術論ではなくて、教育の基本的なあり方まで掘り下げるような教育改革であってしかるべきだと思う。行革はいわばその精神的な先駆でもある」。
1984(昭和59)年9月、中曽根先生は自ら主導して立ち上げた臨時教育制度審議会(臨教審)に、教育改革の基本施策を諮問しました。これに対し臨教審は答申の中で「入学時期」について次のように記しています。
◎秋季入学制への移行
ア より合理的な学年暦への移行と学校運営上の利点の視点
イ 国際的に開かれた教育システムの視点
ウ 生涯学習体系への移行の視点
しかし、この抜本的な教育改革が実施されることはありませんでした。中曽根先生は挫折した「教育改革」について次のような反省点を挙げています。
第1に、行政改革時の土光敏夫氏のように、会長には社会と実務を知った上で決断力と責任感、哲学、思想を持っている財界人を充てる予定で、中山素平氏(日本興業銀行会長など歴任)に依頼したが辞退されたこと。
第2に事務局の構成を文部省(官僚)中心にしたこと。
第3に最も大事な点として、教育改革あるいは教育に関する基本哲学が臨教審の中枢部に欠落していたこと。
また中曽根先生は教育基本法の理念を認めつつも、日本人の教育基本法である以上は、「日本の個性はどこにあるかを探求し、それを育むという姿勢」が必要なこと。更に「教育の根本は、日本独自の風土と悠久の歴史(天皇制の独特の伝統文化を含め)を背景にした、世界的な日本人をつくるものでなくてはならない」と述べています。つまり、日本を愛する心の醸成が基本であると考えていました。
5月14日に39県の「緊急事態」が解除されました。経済活動を重視しての決断だと思いますが、国民の側に警戒心の緩みが出ないか気になります。ただ、いざというときの日本国民の団結心の強さ、忍耐強さ、聡明さは驚嘆すべきものがあります。それは患者数や死者数の各国比較にも表れています。
中曽根先生は常に日本国民の優秀さを信じており、国民と一緒に政治をする目線を変えることはありませんでした。政治は誰のために行うのか。次から次へと国民からの批判が続く現政権も虚心坦懐、国民のための政治を行うべきでしょう。言葉を連ねる必要はありません、国民に資する行動あるのみです。第2波、第3波に襲われた場合のリスク管理・危機管理(インフルエンザの蔓延、台風・地震の自然災害、新型コロナウィルスの変異等々が起きる可能性を含め対処を考えておく)、とりわけ医療崩壊が起きないように万全を期して頂きたいのは言うまでもありません。抗体、ワクチンが出来るまでの最大の防波堤です。更に検査器などを増やすことは可能でしょうが、技術を持った医療スタッフを短期間で増やすことはできません。
新型コロナとの戦いはより複雑な戦いとなるでしょう。中曽根先生が総理だったら陣頭指揮を取られたことは間違いありません。専門家を集めた諮問会議をいち早く立ち上げ、あらゆるケースを考慮しつつ終息までの工程表を作り、それに沿って各大臣を縦横無尽に活動させ、役所や官僚を機能的(縦割り行政を無くし)に配置し、うまく使ったことでしょう。
中曽根先生は何よりもスピードを重視されました。スピードと国民目線の対応、この2つが何よりも求められます。一方、国民は国民で自主、自律の精神を強く持って、そして為政者は党派を超えて独立不羈の精神、独立自尊の気概(政党に公認権・人事権・資金という絶大な権力を持たせた小選挙区比例代表制度では厳しいかもしれません。そのような制度でも、憲法改正ができればとの期待がありましたが…)を忘れず臨んで頂きたいと思います。まだしばらくは、この難敵に立ち向かわなければいけません。
総理時代に自民党のセミナーで行った中曽根康弘先生の演説の一節、「もはや私には派閥も党もない。わが眼中にあるのは国家国民のみである」を噛み締めています。