安倍晋三元総理大臣の死によって、旧統一教会と政治家との関係が、次々と明らかにされています。
このような状況の中で、9月27日に行われる予定の故安倍総理の国葬の準備が、着々と進んでいます。費用は2億5千万円、参列者は最大で6千人を予定とのことです。更に警備として全国から警察官が集められ、その費用に数十億円掛かるともいわれます。
既に岸田文雄内閣総理大臣が国葬を決断され、閉会中審査でその理由を丁寧に説明される予定です。そこで国葬に関して、再度私の考えを述べておきたいと思います。
ここで国葬と国葬儀の違いを確認しておきます。簡単にいえば、国葬は戦前の「国葬令」により行われた葬儀であり、「国葬儀」は閣議決定により行われる葬儀です。しかし、現在は「国葬」が言葉としては一般的に使われており、新聞等の表記も「国葬」を用いています。
戦後、これまでに国葬として行われたのは昭和天皇、大正天皇妃の貞明皇后(但し、国葬と明確にはしなかった)、そして吉田茂の3例です。吉田茂の時が極めて異例であり批判も多く、葬儀委員長であった佐藤栄作総理自身の葬儀にあたっては、国葬ではなく「国民葬」という別の形で執り行われました。
政府は、今回の国葬に対する国民の反対が強いことを考慮して、国葬に際し国民や行政機関に弔意表明を求めないことにしました。しかし、これでは国葬とはいえません。国葬とは「国をあげてほうむる」という意味です。
前回も指摘しましたが、国葬は天皇家の「大喪の礼」に限るべきです。
政治家の場合はその業績に対する評価が難しく、またすぐ答えが出るものでもありません。中曽根康弘先生が繰り返し述べられたように、政治家の仕事は「歴史の法廷で裁かれる」ものです。憲政史上一番長く総理の職を務めたとか、海外から多数の要人が来日して弔問外交が行われるとか、時の総理が勝手に国葬に値すると決めるべきではありません。そもそも総理の評価は、在任期間の長さではなく、国や国民、社会のために何をなしたかによって決まるものです。弔問外交も、特に国葬でなくても可能です。ましてや、主要各国の現役首脳が参列しなければ弔問外交の意味がありません。
1947年に制定された「皇室典範」の第25条に、「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」ことが記されました。また、2019年の今上天皇の皇位継承に際し、新たに上皇の崩御の際も「大喪の礼」を行うことが規定されました。「大喪の礼」は別格とはいえまさに国葬であり、天皇、上皇に限られたものです。
日本国憲法の第1章の「天皇」、第1条「天皇の地位・国民主権」は次のように規定しています。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」。主権の存する日本国民の総意に基づく天皇と、そうではない総理の葬式を国葬として同列に扱うべきではないでしょう。天皇は国家元首であり、世界で唯一、2000年に及ぶ悠久の時間の中で培われた伝統文化の継承者です。単なる一時期の権力者とは異なります。権力と権威、類まれなるシステムを維持することによって、敗戦から今日に至る日本の発展がありました。
日本の歴史と共にあった天皇家の権威と尊厳を、日本国民としては守る必要があります。