元参議院議員 田中しげる

しげるレポート | 田中しげるの活動報告ブログ

ゴルバチョフ財団での昼食会(1993年)
今年鬼籍に入られた一人・・・ゴルバチョフ氏と食べた昼食
レポート 2022/12/12

 今年は、私の人生に記憶される思い出を作ってくださった方々が、何人も亡くなられました。海外では、以前FBでも書いたように英国のエリザベス女王もそうでした。そして、ソヴィエト社会主義共和国連邦大統領(最終公職)だったミハイル・ゴルバチョフ氏もそのお一人で、91歳で8月30日に亡くなられました。

 ゴルバチョフ氏とはモスクワで、また東京でもお会いしました。1993年にモスクワのゴルバチョフ財団で中曽根康弘先生と一緒にお目にかかった際は、氏の友人の一人だったニコラエ・チャウシェスク・ルーマニア元大統領(1918~1989)の話を淡々と語って下さいました。
「私はチャウシェスクに『世界の潮流に合わせないと、悲劇的な死を迎えることになるぞ』と何度も忠告したが、彼は聞く耳を持たなかった。結果、あの様な悲劇的結末を迎えてしまった」

 ご承知のようにチャウシェスクは最後に革命勢力に捕らえられ、妻のエレナとともに銃殺刑となりました。その衝撃的映像はテレビでも放映され、未だに私の脳裏に焼きついています。ゴルバチョフ氏の話には当事者しか分からない生々しさがありました。財団からの帰りの車の中で、中曽根先生に「チャウシェスクの件をゴルバチョフさんから聞くと、臨場感というかより現実味を感じました」と言うと、先生も「そうだね」とひとこと言って黙り込んでいました。

 ゴルバチョフ氏は来日される度に中曽根事務所に足を運ばれ、先生は日の出山荘(※1) にもご夫妻を招待し交流を深めていました。1993年の来日の際も、中曽根先生を砂防会館の事務所へ表敬訪問されました。その帰りぎわに、私がモスクワのゴルバチョフ財団でお世話になったお礼と同時に、そのときの昼食の話をしました。鶏肉の中に色々詰め込んだパン粉揚げのロシア料理が、言うに言われないほどおいしかったのです。「今でもあのおいしさが、忘れられません」と言うと、氏は驚いた顔で私を見て即座に「あの時の料理だろう!! あの鶏肉の料理は、私もよく覚えている!確かにあれはおいしかった!!」。ゴルバチョフ氏も同じ感想を持っていたことに嬉しくなったのを、昨日のことのように思い出します…。

ゴルバチョフ財団での昼食会(1993年)
ゴルバチョフ財団での昼食会。中曽根先生の右隣はゴルバチョフ氏の側近だったヤコヴレフ氏(1993年)

 このHPで幾度となく中曽根先生のリーダーの4条件を紹介しています。先生は、「リーダーとして決断力、実行力、情熱等々があるのは当たり前だ。実際は、『目測力・結合力・説得力、更に人間的魅力』が大事だ」と言っています。そして、先生がその人間的魅力を感じた数少ない1人はゴルバチョフ氏でした。
 中曽根先生は、ゴルバチョフ氏の魅力を語ったことがあります。
「ゴルバチョフさんに初めて会ったのは、チェルネンコ書記長の葬儀のときだった(先生の総理時代)。チェルネンコにかわり新しい共産党書記長に就任したのがゴルバチョフさんだった。その新書記長に会いたいのだが、同盟国や衛星国に優先権がありなかなか難しい。私は、いったんは『もう帰る』と飛行場に向かうなどの駆け引きをして交渉した(先生は部屋の会話が盗聴されていると分かって話をしていた※2)。するとようやく面会が叶った。翌日、ゴルバチョフさんに会うと、彼はペーパー無しで話をしてきた。私も同様に対した。印象的だったのは、会談終了後、立ち上がってこう言ったことだ。
『あなたとは、もう一度話がしたい』
 私が総理を辞めた後、何度も会い親交はさらに深まった。ゴルバチョフさんはソ連を崩壊させたとして国内での人気はなかったが、相手の気持ちを理解し、別れるときの温かさはいつも変わらなかった。パリに留学したこともあり、考え方も振る舞いも極めて欧州的だと思った」

 中曽根先生にお仕えした者として、指導者は透徹した見識と歴史観、深遠な哲学を持つのがいかに重要かを痛感します。リーダー同士の話や、国民に対しては官僚が作成したペーパーを読むのではなく、魂が入った言葉で語るのが大事だとつくづく思います。

 私がお会いし、本年お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。

中曽根康弘事務所入口前で(1995年)
中曽根康弘事務所入口前で(1995年)

※1. 2019年11月、中曽根先生が亡くなられた際のゴルバチョフ氏の弔意の要約。
「傑出した政治家がこの世を去った。中曽根氏とは1985年に知り合い、お互い公職を離れた後も親交を続けた。ペレストロイカに関心を持ち、ソ連の政策変更を分析されていたが、私たちの自由で率直な議論は有益で中身のあるものだった。中曽根氏は停滞していた日本とソ連の関係を発展させようとの決意に満ちていた。東京都日の出町の中曽根氏の山荘に招かれ、家庭的な雰囲気の中で、心のこもった会話をしたことを思い出す」

※2. 当時の在ソ連・日本大使は、「先方は首相(旧ソ連は書記長が実質権力者で首相ではない)が会うと言っているので、同じ首相だしいいんじゃないですか」と言ったのです。中曽根先生は、「新しい書記長と会って話すことに意味があるんだ!政権が代わる時ほど大事な時はない!」と激怒して大使に日程の交渉をさせたのです。

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