11月30日の午前(日本時間)、日本のマスコミは一斉にヘンリー・キッシンジャー元米国務長官が亡くなったことを報じました。享年100歳。
米国の国務長官クラスの政治家の死が、これほど大きく取り上げられることは珍しいことと言えます。それだけキッシンジャー元国務長官が、日本を含め世界に与えた影響力が大きかったことを物語っています。
中曽根康弘先生とキッシンジャー氏は浅からぬ因縁がありました。
両氏の最初の出会いは、1953年、先生が若手政治家としてハーバード大学夏期国際問題セミナーに参加したときでした。キッシンジャー氏は助教授としてセミナー全体を統括していたそうです。
その後中曽根先生がキッシンジャー氏と再会したのは、日本で第一次石油危機(オイルショック)が起きた1973年の秋のことでした。イスラエルとアラブ諸国が戦った第4次中東戦争(1973年10月6日勃発)が引き金となっていました。
当時の首相は田中角栄氏、その田中内閣で通産大臣を務めていたのが中曽根康弘先生でした。先生は通産大臣として石油の輸入先を広げるべく、その年の5月にはすでにアラブ諸国を訪問して関係強化に努めていました。更に日本政府はアラブ諸国から石油を取り入れるために密使の派遣もしていました。日本は猛烈なインフレに陥り、「狂乱物価」という造語が生まれるほどで、早急な経済対策として石油は必要不可欠でした。
そのような状況下の1973年11月、ニクソン政権の国務長官だったキッシンジャー氏が来日し、日本の将来を左右する石油輸入について話し合いをしたのです。
現在のイスラエルとハマスの戦いを見ても分かるように、米国は一貫してイスラエルとの友好関係を重視しています。特にユダヤ系ドイツ人の家庭に生を享けたキッシンジャー氏にとって、イスラエルとの関係は特別でした。
一方、日本は、石油確保のためにパレスチナへの自治権付与、イスラエル兵力の全占領地からの撤退など親アラブ支持の声明文を出すか思案中でした。
中曽根先生とキッシンジャー氏との会談では、キッシンジャー氏はイスラエル側に立つことを要求しました。しかし、それではアラブ諸国からの石油確保ができなくなります。米国に従ってイスラエル側に立つのか、それとも日本の存立を守るために独自路線を行くのか。
その時、先生はキッシンジャー氏に対して、「アラブに頼るな」というならその代わりとして次のような要請をしました。
以下、弊著の『変えるべき 守るべき 日本の姿』より抜粋します。
①オイルメジャーの石油備蓄分の一部を日本に供給する。
②在日米軍が使用する石油は米国から直送し、日本の民間分は使用しない。
③早期中東和平の実現。
この要請に対して、キッシンジャー氏は次のように返答しました。
①オイルメージャーへの融通の指示は不可能。
②在日米軍使用の石油は検討する。
③中東和平交渉に期限をつけるのは愚、アラブ諸国と安易な妥協はしない。
この返答に対し中曽根先生は、「日本経済が壊滅すれば安保条約も機能せず、米軍も動けなくなる。それは自由主義陣営全体の危機につながる。そうした危機が迫れば、日本としても国家生存のための適切な方法を取らざるを得ない」と反論し、”国益”を守るための国家戦略について言及したのです。
この会談は対峙したまま終了しました。
部屋の外には記者が待ち構えていましたから、二人して笑顔で出て、友好裡に話が進んだような演技をされたそうですが、極めて重苦しい話し合いだったそうです。先生によれば、キッシンジャー氏は日本の状況を十分に理解してなく、彼の頭の中は米国中心の対アラブ対決戦略だけだったようです。
最終的に日本は先生の主張通り前記のアラブ寄りの声明文をだすことで、オイルメジャーから減らされた分を含めて必要な石油を確保し、この危機を乗り越えたのです。
しかし、このことが日本に大きな事件を引き起こしました。この件に関して、中曽根先生は、『天地有情~五十年の戦後政治を語る』インタビュー:伊藤隆、佐藤誠三郎(文藝春秋)の中で、以下の如く書いています。
「田中(角栄)君は、国産原油、日の丸原油を採るといってメジャーを刺激したんですね。さらに、彼はヨーロッパに行ったとき、イギリスの北海油田からも日本に入れるとか、ソ連のムルマンスクの天然ガスをどうするとか、そういう石油取得外交をやった。それがアメリカの琴線に触れたのではないかと思います。世界を支配している石油メジャーの力は絶大ですからね。のちにキッシンジャーは『ロッキード事件は間違いだった』と密かに私にいいました」。
実は、米国ワシントンDCでキッシンジャー氏が中曽根先生に上記の言葉を述べた際には、私も陪席していましたが一瞬耳を疑いました。それはロッキード事件で田中角栄氏を陥れたことを意味していたからです。帰りの車の中で、「キッシンジャーさんはとんでもないことを言いましたね!」と言ったら、先生は、「本当だね、驚いたよ。」と応えました。その時の先生の顔をいまでも鮮明に覚えています。
ところでキッシンジャー氏は先生より5歳年下でしたが、誕生日が5月27日と一緒でした。毎年、お互いにバースデイカードのやり取りをされていました。その中でキッシンジャー氏は毎年必ず以下の文章を書いていましたので紹介しておきます。
「中曽根さんは日本の”国益”を常に考えていた政治家である」
キッシンジャー氏のご冥福を心からお祈りします。