◆2014(平成26)年は・・・
・参議院議員として初登庁
2014年は、私にとってこれまでの人生で経験したことがない波乱万丈の1年でした。何よりも繰り上がり当選により、4月1日にみんなの党所属の参議院議員となりました。青天の霹靂(へきれき)というのでしょうが、知らせを受けたときは他人事のように思えたものでした。
中曽根元首相の秘書を長いこと務めておりましたが、議員の経験はもちろんありませんから、右も左も分からないまったくの新人です。通常国会の会期中でしたから、議員になるや党から国土交通委員会の委員に任命され、準備する間もなく実戦ということになりました。
委員は国民の代表として、省が行っている様々な施策の疑問点や不明点などを尋ね、明らかにしていくことが仕事となります。そのためには国土交通省の施策に精通していなければなりません。インフラ整備、地方都市の再生、スマートシティー、リニア等々ひたすら勉強の日々でした。
・渡辺代表の資金問題
議員になる少し前の3月末に発売された週刊誌に、渡辺喜美みんなの党代表の8億円資金問題が掲載され大騒ぎとなりました。党が混乱するなかでの議員デビューとなったわけです。党の混乱は続きました。参議院議員の1週間目には渡辺代表が代表を辞任。4月11日には浅尾慶一郎幹事長が代表に就任。新しい執行部の誕生とともにみんなの党も再出発をしました。しかし混乱の種は埋め火のように灰の下に残ったままでした。
・本の出版
通常国会は6月末に会期末を迎えました。無事国土交通委員会の委員を務め終え、勉強の日々から少し開放されたというホッとした気分でした。この間、5月末にこれまでに書き溜めておいた中曽根元総理の「政治と人生の危機管理法」を、『100歳へ!中曽根康弘 長寿の秘訣』のタイトルで光文社より出版しました。本の出版も含め、大きな出来事が一時に押し寄せてきた日々でした。
・外交防衛委員会の委員に就任
臨時国会は9月26日に開会しました。
9月に入るやいなや安倍首相は内閣を改造し、第2次安倍改造内閣を組織しました。時を同じくして、党内では執行部の党運営に対して渡辺前代表が不満を募らせ、代表辞任要求へ発展。それに対し浅尾代表が渡辺前代表の処分を検討、離党勧告を口にするなど、路線問題の対立がエスカレートし党内はもめます。再び連日のように議員同士の会合です。この対立は臨時国会の始まる前に両院議員総会を開き、路線問題を棚上げにすることで関係修復が図られました。
こうして迎えた臨時国会では、かねてより念願の外交防衛委員会の委員になり、外交・防衛問題などを中心に外務省、防衛省の施策の問題点などを質しました。この委員会では江渡聡徳防衛大臣の不明朗な資金問題があり、また片山さつき委員長が公平中立でなければならない立場にありながら、私の質問中に政府想定問答を読んでいたことが問題となり、それらの追及で審議時間が奪われてしまったことは極めて遺憾なことでした。
・解散風と党の瓦解
11月に入るとにわかに解散風が永田町に吹き始め、それに伴って党内の路線対立は再び激化、収拾のつかない状況となりました。
衆議院の解散が現実になると、路線の対立が改めて浮き彫りとなり、溝は埋まらないまま、ご存知のように解党に至りました。解党に至る経緯はホームページの「解党!みんなの党」に書きましたので繰り返しませんが、議員1人1人の苦渋の決断の結果でした。
・それぞれの道への模索
解党したみんなの党の議員たちは、それぞれの道に進んでいます。私自身は仲間6人と共に新会派「日本を元気にする会」を結成し、12月18日に参議院事務局に届出を済ませました。実際、国会内での議員活動は1人では何もできません。委員会の割り当てや代表質問の持ち時間などは、基本的に会派の人数によって決められます。5人以上の会派を作ることで総理の所信表明に対する代表質問や、議院運営委員会にオブザーバー委員を派遣することが出来ます。今後は会派の一員として、これまでの外交・防衛問題に取り組んでいく考えでいます。
会派は党とは異なります。政党交付金を目当てに党を作るようなことはすべきではないというのが、会派所属議員の一致した考えです。党にはこの国の将来をどのように考え、次の世代につなげていくかという基本的な政治哲学が不可欠であり、単なる員数合わせであってはいけません。
活動の場としての新会派を作ることを第一歩として、まずはここを基盤にして議員活動を進めていきたいと考えています。
2014年は、私の人生の中で決して忘れることが出来ない波瀾万丈の年になりました。今年1年の皆様のご厚意ご協力に心からの感謝を申し上げ、よいお年をお迎え頂くように心からお祈り申し上げます。